840 陰徳を積むとなぜいいことがあるか

陰徳を積むと良いと言いますね
私もそう思います
陰徳を積む人には積まないより良いことがあると思うし、そうあってほしいという期待があります
反対に、見ていないところで悪いことをする人にはバチが当たって欲しいとも思います
同時に、それは私の期待にすぎず、俗に言う「因果応報」な結果にならないことがあるのもわかっています
今日はこのあたりについて書きます

陰徳を積むという考えは、「お天道様が見ている」「天網恢恢疎にして漏らさず」などの考えと親和性が高いです
誰も見ていないところで善いことや悪いことをすると、人間は見ていなくても神が見ている、だから神が報いてくれるという考えです

無神論者の私からすると、誰も見ていないところでやったことを見ているのは自分です
当たり前ですね
つまり、自分の中の神が見ているということです

ここでいう「神」は、主に「自分の中の善悪の価値観」だと思ってください(「神=自分の中の善悪の価値観」というだけではないですが、今回はこの理解で足ります)

冒頭で私は
>陰徳を積む人には積まないより良いことがあると思うし、そうあってほしいという期待があります
>反対に、見ていないところで悪いことをする人にはバチが当たって欲しいとも思います
と書きました
これが、私の善悪の価値観であり、私の神もそう考えています

この考えを広げていくと、【自分がもし悪いことをしていたら「こんな自分は幸せになる権利などない」と思ってしまいがちだ】ということがわかります
この反対は、【自分がこれだけ善いことをしていたら、幸せになる権利はあるだろう】という考えになることがわかります
これは【これだけ善いことをしている人は幸せになる権利があるだろう】というように他人で考えた方がしっくりくるかもしれません
この場合、他人も自分も区別はありません 同じです
脳は他人と自分を区別できないという話を聞いたことがある人もいるかもしれません
それが当てはまります

だから見返りを求めて陰徳を積もうとしても、「見返りを求めるためにやるなんて打算的な人間には、打算なしの本心から陰徳を積む人ほどの幸せは来ないだろう」という考えがあれば、そうなります

そしてすべては自分の中の価値観なので、人によって「これだけ善いことをすれば」「こんな悪いことをしたら」の善悪の基準は異なります
だから誰かにとって悪いことをしている人でも、その人の中でそれが悪いことだと認識されていなければ、因果応報なことは起こりません
ですが、表面的な意識では「悪いことをした」と思っていなくても、潜在意識がそう思っていたら、因果応報なことになります
逆の善いことも同じです
どんなに善いことをしていても、「自分なんて(幸せになる資格などない)」と自分を卑下していたら、善いことを無意識に回避して、自分に対する罰を引き寄せたりします

「自愛の上では自分は無条件に受け入れられる存在」とは言っても、やはり幸せに値する自分だという認識があった方が幸せを受け取りやすいでしょう

それに打算だけで善いことをしてもつまらないと思います
本当に善いことをすると、自分だけでなく周りを含めた全体が良くなります
人工知能では全体最適化と言ったりします
自分の行いで全体が良くなったこと(社会全体の幸せの合計が少しでも増えたこと)を実感できれば、善いことをしたんだなと素直に思えます
私の価値観からすると、全体最適化が進むのは美しいです(効率化が進むのとほぼ同義で、無駄がなくなり、美しい)
それ自体がすでに私にとってよいこと、うれしいことです
だから私は陰徳を積むのは結構好きですね
もちろんできる範囲のことですが
私と同じ価値観になれとは言いませんが、自分の余裕を使ってできる、ちょっとした、でも本当に善いことをすれば、実際に現実も良くなるし、気持ちがいいものだし、その上幸せも受け取りやすくなります

以上が、陰徳や因果応報などに関する私の考え方です
すべて自分の中で起きていることです

余談ですが、質問に答えていくとどんな性格の人か判定してくれる性格テストがありますね
学校や会社に入るときや研修などで受けさせられるテストです
これもだいたいは当たっていると感じると思いますが、結局これらは「本人が自分をどう思っているか」を調べることしかできないので、とんでもない悪人のテスト結果が「自己犠牲的なお人好し」になることもありえます(実際に見たことがあります)

人の心って本当にいろいろ面白いですね