847 「祈る」ことには力がある/スピリチュアルな行為に意味がある理由

私は最初、引き寄せを信じていませんでした>>1-2
今も、神や霊といったスピリチュアルなものは鵜呑みにせず、オカルト体験も人の認知エラーによる症状(現象)のようなものだと思って見ています
「祈る」ということについても、最初はバカにしていました
今は違います
「祈る」ことには力があります

「祈る」とはどういうことでしょうか?
「xxを叶えてくださいと祈る」はずだから、何か叶ってほしい状態があるはずです
でも自分の力では無理だから、超常的な力を持った存在に自分の代わりに叶えてくださいとお願いするわけです
そしてその存在は自分よりも力があって、自分には手出し口出しできない、ある意味恐怖(畏怖)を感じるほどの存在であったりします
もう自分には手出し口出しできない、その存在にお願いするしかない、それがダメだと言ったら打つ手がない

ということは、

・叶って欲しい何かがある
・自分より力のある存在に代行をお願いする
・叶うかどうかは自分ではコントロールできない
・それでもいいから願わないではいられない

こういうことです
「おまかせ」に似ています

祈り方にもいろいろあって、心の底から静かに湧き上がる思いにしたがってする平穏な祈りもあれば、御百度参りや丑の刻参りのような執着や怨念にしたがってする祈りもあります
私は純粋な祈りは天に通じると思います
言い方を変えると、自分の本質から生じた祈りは潜在意識の志向性と一致するので、自我と潜在意識の連携力が高まり>>32、その結果実現しやすいのだと考えています
祈ればなんでも叶うわけではないけれど、純粋な祈りは、可能性を本当のギリギリにまで高めてくれると思います
だから奇跡が起きたりするわけです
普通に考えれば実現する可能性が低いことも、純粋に祈ることによって、潜在意識の働きが最高に引き出されて、実現への道筋を見つけ出し、たどることができる

そのようなわけで、今の私は「祈りにすごい力はある」と考えています
昔読んだ恋愛指南サイトで恋愛成就の秘訣について「最後は祈ること」と書いてあって、当時はものすごくバカにした、というか、「こんな理論的な人のたどりついた奥義がそれなの?」と思ってものすごくがっかりしたのですが、これは正しかったわけです(xxさん、すみません)
しかし、このこと(理論的な人がスピリチュアルな結論を出したことにショックを受けたこと、それがどうやら経験則にもとづいた結論らしいこと)はずっと頭の片隅に引っかかっていて、折に触れて考えたりした結果、「祈り(スピリチュアルな行為)は人の認知に関係があって、無意味ではない」「むしろものすごい力がある」ということに気がつくことができました

私は神や霊や天使といったスピリチュアルな存在の実在は否定しますが、スピリチュアルな行為に全く意味がないとは思いません
スピリチュアルな存在、たとえばスピリット(魂)そのものが存在するわけではないけれど、人の認知の仕組み上、スピリットのような存在が実在すると感じられるのは本当でしょう
蜃気楼を見ると、屈折率の違いからくる目の錯覚のせいで、そこには実在しないものが見えます
それと同じで、スピリチュアルなものも「実在するように感じられるけれど、錯覚」「錯覚だけれど、本人にはそのように見えている」のだと思います
その区別をつけるには、知識や分別といった知恵が必要です
蜃気楼なら、温度によって空気の屈折率が変わること、それによって目の錯覚が起こることを知識として知っていて理解できていれば、そこにものが見えていても、本当はそこにそれはないこと、それが蜃気楼という現象であることを受け入れることができます
でも蜃気楼の仕組みについての知識がなければ、「見えているんだから、そこにある」という考えから離れられず、「そこにはないものをあると誤認したまま」になります
そして、仕組みを知ったとしても、それが錯覚だとわかっていても、それでも私にも蜃気楼は見えます
私は蜃気楼で見えるもの、つまりスピリチュアルな行為を通して感じられるものを否定しているわけではないのです