824 「なる」より「おまかせ」がよい理由

前回、準備ができている人は「なる」ができる可能性が高いと書きました
たとえば「おまかせ」ができる人は準備ができている人です

「おまかせ」ができていると、「こうなったらいいな」ということを気楽に考えることができます
「そうならなかったら幸せになれない」みたいな切羽詰まった感じになりません
「おまかせ」なので、叶おうが叶うまいが構いません
また、慣れて来ると、とんでもなく外した願望設定などをしなくなるので、「自分」の思い描いた願望がすっと叶うことも多くなってきます
こんな感じで「こうなったらいいな」と考えているとき、意図せず「なる」ができていることがあります
そして叶ってしまうことがたびたびあります

これは結果的にはたまたま「なる」ができたのと同じようなものですが、わざわざやろうとして「なる」をやったわけではありません
「おまかせ」しつつ好きに生きていれば、そのときそのときに最適な方法でふさわしいものが手に入り、その一つがたまたま「なる」と同じような形で手に入ることがあるというだけです

それに「なる」ができるからと言って、「なる」ばかりをわざわざやるのは勧めません
「なる」は「自分」の想像力の限界を超えられないという限界があるし、願望を特定することで「自分」から未来の可能性を狭めるからです
一歩間違えば執着と同じことをやるわけです
執着は不快なものですが、わざわざそんな思いをしなくても「おまかせ」のほうが楽しくベターなものが手に入ります

>>819でも書きましたが「おまかせ」できていれば、願望を描くことは自由です
ただし、叶うかどうかはおまかせで、執着はしません
「正しい願望設定」は自分を知ること、自分を受け入れることでできるようになるので、自愛が効きます

この「正しい願望設定」はとても奥深く、突き詰めると「願望を持たないように、おまかせにしよう」と思うまでもなく、「願望設定」自体が本当に消えるのかもしれないと最近は考えています(もちろんそれでもすごく幸せ、自分にふさわしい素晴らしいものが手に入る)
このあたりはまた別に書きます

最後に補足ですが、上記の「とんでもなく外した願望=実現可能性が低いと思われる願望」ではありません
・自分にふさわしいこと
・実現の可能性が低く見えること
これらはそれぞれ違うことを指していますね
ここで言っているのは「自分にふさわしいかどうか」であって、「とんでもなく外した願望設定などをしなくなる=自分にふさわしい願望設定ができるようになる」ということです
だから慣れて来ると、実現可能性が低いと思われることでも自分にふさわしいことは実現しやすくなってくる、という意味です
「自分にふさわしいもの」と書くと、どうも「妥協してそこそこのもので我慢する」と読み替えて受け取る人がいますが、そうではありません
この話に限りませんが、感覚的なことをいくら言葉で説明しても、本人が腑に落ちていないとか想像もつかないようなことについては理解できないのだと思います
引き寄せはスポーツと同じで、実践しないとできるようにならないことなので、
読んで実践して感覚を養う
→また説明を読み返して、理解が少し深まって、それを活かして実践を進める
→また説明に戻って…
のループで理解を深めていかないと、一向に「わけがわからない」「意味がないように見える」から変わりません
割合は実践7、説明3くらいでちょうどいいくらいです
説明なんて実践のおまけです