175 既にある?

【既にある?】

この掲示板に来ている方は耳にタコができるほど聞いたことがあると思われる「既にある」についてです
>>107で「他人は自分?」という話を書いたので、既にお分かりの方もいると思いますが、私の考えを書きます

まず、おさらいです

>>20で「私たちの認識した世界は、現実そのものではなく、自分の解釈で脳の中に再現したもの」と書きました

>>107で以下のように書きました
「私たちは何か考えるとき、必ず脳の中で考えます
実世界で物体がないものは手で触れないように、何か考えるときにはそれについて頭の中に思い浮かべなければなりません
ぜんぶ自分の脳の中で、思考に出てくる人物やら小道具やらを用意しないといけません」

>>20 >>107をまだ読んでない方は読んで来てください
以下、読んでいるものとして進めます

さて、>>107では、「他人について考えるケース」にフォーカスして書きました

では、「願望について考えるケース」はどうでしょうか?

はい、もうお分かりですね
「ぜんぶ自分の脳の中で、思考に出てくる人物やら小道具やらを用意しないといけません」から、「願望」も頭の中にあるわけです←「既にある」
願望役の脳神経がいるわけです

というわけで今回の話はもう終わってしまいました(笑)

これだとちょっと私が書き足りないので(笑)、以下、蛇足をつけ加えさせていただきます
もう話は終わっているので、おまけです
もうわかったという方は読まなくても結構です

「既にある」というけど、目の前の現実世界にないんじゃ意味ないじゃん!という方がいらっしゃると思います
確かにそうですね

ここで>>20の「私たちの認識した世界は、現実そのものではなく、自分の解釈で脳の中に再現したもの」に戻りましょう
これは「脳の中にあるものは、現実にあろうがなかろうが、脳神経が表現している」という点では全く違いはありません

現実に見たもので鮮明に覚えているものは脳の中でも鮮明に再現でき、まだおぼろげに描いている願望は陽炎のように捉えどころがないイメージで表現されているかもしれません
だからやっぱり「既にある」とは言っても、現実のものと想像だけのものは違うかも?
確かにそうかも

でも待ってください
現実に見たものでも、記憶が曖昧なものはたくさんありますね?
昔一度だけ見た、一瞬目の端に捉えた、などなど
逆に、ありありと目の前に浮かべられるほど鮮明にイメージできている、まだ現実にはなっていない願望もありますね
(イメージングや「なる」などはこれを目指しているものと思います)

そうすると、現実に見たものと願望の鮮明さが先ほどの話と逆転しましたね?
やっぱり現実にあろうがなかろうが、そんなに違いはないわけです

つまり、もし「願望」が実現前のイメージと寸分たりとも違わないカタチで実現したとしたら、実現前も実現後も脳の中にあるものは同じです

残る違いは「まだ現実にない」か「すでに現実にある」という属性だけです
これも実はそれほど違いはありません

「もし願望が実現したとしたら…」と考えることは、【「まだ現実にない」ものが「すでに現実にある」としたら】と考えるということです

すでに現実に存在しているもの担当の脳神経が「すでに現実にある」という名前の劇団に所属だとしたら、願望役の脳神経は「まだ現実にない」という名前の劇団に所属です

【「まだ現実にない」ものが「すでに現実にある」としたら】と考えるとき、「まだ現実にない」所属の願望役の脳神経が、もし現実だったら…という演技を、「すでに現実にある」所属の現実に存在する他のキャストや小道具と一緒に現実を模した舞台装置を使って脳内劇場で演じるわけです

願望が現実になったあかつきには、願望役の脳神経は「まだ現実にない」から「すでに現実にある」に劇団を移籍しますが、観客(自分)が観ている脳内劇場の舞台上の演技においては願望実現前後で何も違いはありません
俳優がどの劇団に所属していようが、舞台上の演技に関係ないですね?
もし控え室でまさに劇団移籍の書類手続きが進行中であっても、それに関係なく脳内劇場の舞台上での演技は同じキャストによって進行していきます

以上、私の考える「既にある」でした
確かに願望実現に効果ありそうな考え方ですね
それでも私はおまかせ派ですが(笑)
「既にある」が願望実現に効果があるかどうかなどはいずれまた書きます

余談ですが、実現前後での違いが少ないほど、願望役のキャストも実現前後で同じ脳神経が担当するんじゃないですかね?
想像だけから現実になると得られる情報は増えますので、同じ脳内キャストであってもメイク、衣装、演技などによる再現度が高くなるかもしれませんが、よほど違いがなければ、キャスト自体が入れ替わるということはないのではと思います
逆に実現したのに想像からすごく違っていたら、全然違うキャスト、全然違う演技に入れ替わって「こんなはずじゃなかった」という思考劇が始まるのだと思います