797 スレ立てしてから二ヶ月で気付いたこと:執着の元になる自尊心の欠如について詳しく

前回は【「自分の要求が通らない」という事実を受け入れられない】という切り口を通して、自尊心の欠如から執着が起こることを書きました
今回は執着において過度な要求の元となる自尊心の欠如について、「相手に対する過度な期待」「幼児的万能感」「目的のすり替わり」という面から、より細かく書いていきます

まず執着というのは、ある程度の価値を認めた存在を対象に起きるものです
どうでもいいものには執着しません
よく「好きの反対は嫌いではなく無関心」と言ったりしますが、その通りで、何の価値も見出せないものについては執着は起きません
これを念頭に執着を見ていくと、執着する人は自己を低く評価しているのと対象的に、執着の対象に色々な価値を見出していることがわかります
これは実際よりも過度な期待であることが往々にしてあります

この「相手に対する過度な期待」というのは「自分が執着している相手には、自分自身では叶えられない自分の要求を叶える能力がある」という考えのことです
自分一人で要求が満たせれば、自分以外の存在など要りません
執着は対象を必要としますから、自分の要求を満たすには相手が必要だと考えていることがわかります
つまり、執着は相手を高く評価して、自分の能力は低く評価していることになり、「自分が執着している相手には、自分自身では叶えられない自分の要求を叶える能力がある」と考えているとわかります

本人はこれに気づいていなくて「相手が果たすべき義務を果たしていないから、自分が被害を被っている(相手が自分にとってのタブーを犯している場合もこれに該当します)」という怒りの意識でいることも多いです
この「相手から被害を被っている」という考えは裏を返せば、自分は傷ついた弱者だ、相手には気分を傷つけるだけの能力がある、自分の感情は相手次第だ、ということなので、やはり相手を高く評価し、自分を低く評価している、そして相手に自分のことに関する主導権があると考えてしまっていることがわかります
こういう考えを持っている人は「自分には相手に要求をする権利がある」「自分には相手を責める権利がある」というように考えるので、言動を見ればわかります

これがエスカレートすると、「自分の要求を満たすために相手に苦しんで誠意を見せてほしい」というサディスティックな考え、さらには自分と同じように相手に苦しんでほしいという考えにつながっていきます
これも【相手には「相手が苦しむ姿を見せることで、自分を満足させてくれる」という能力がある】と相手を評価していると考えることができます

何かに執着を感じた場合、自分はどうして自分で自分を幸せにすることができないと思っているんだろう?と振り返ってみると、突破口が見えることが多いです

次に「幼児的万能感」ですが、これは「自分にはなんでもできる」という、現実を無視した子供っぽい夢想的な考えのことです
赤ちゃんや幼児は叶えてほしい要求があったら、それが何であっても構わず、泣いて周りに要求しますよね
「今の家庭事情を考えるとこれは難しそうだからやめておこう」とか考えません
これが幼児的万能感です
執着においては「誰であろうが自分の要求を満たしてくれて当然」という考えになり、適切な相手を見極めることなく誰彼構わず好き勝手な要求をするということにつながります
【「自分の要求が通らない」という事実を受け入れられない】原因の一つです
このように、幼児的万能感が強いと、実現の可能性が薄いところに執着することに疑問を持たなくなります
だから願望を手放すことが難しくなり、おまかせすることも難しくなります
そしてこれも「【自分は幼く小さく非力で自分自身には叶える力がないから】【叶える力のある】相手が叶えるべきだ」という考えが潜んでいます
自分を低く評価し、相手を高く評価しています

引き寄せにおいて「なんでも叶う」と思っている人(言っている人)がいますが、これも幼児的万能感です
これに魅力を感じる人は危ういです
そういう人は「幼児的万能感」と自尊心の欠如が組み合わさって、引き寄せに取り組む目的が「幸せになる」でなく「自分にはなんでもできる能力があることを証明する」にすり替わってしまう可能性が高いからです
別にそんなことを証明する必要はなく、さっさと幸せになればいいだけなのですが、不満だらけの現実を抱えている場合など、幸せになることを差し置いてでも「こんなはずではない」「自分にはなんでもできる能力があるはずだ」ということを証明したいという方向に行きがちなので注意してください

幼児的万能感から脱却するには、自分にふさわしくないものを「自分には要らない」と切り捨てることができる能力が必要で、それには自尊心が不可欠です
だから自愛をすると効果があります

自分をよく知れば、自分にふさわしくないものがはっきりとわかり、手放すことができます
知っているということはとても強力で、泣く泣く諦めるということではなく、冷静にそうすることができます
これが自分の可能性を減らす辛いことのように感じる人は、もっとよく自分のことを研究するといいです
自愛ができるようになると、外部からの声に惑わされなくなり、自分に本当にふさわしいものの引き寄せに集中することができます
おまかせもできるようになります

最後に「目的のすり替わり」とは、幸せになることが目的ではなく、相手に自分を尊重させること、自分の思い通りに相手に動いてもらうことが目的となってしまっていることです
本人が気づかぬうちに(無意識のうちに)目的がすり替わっていて、本人もまだ気がついていないケースが多いようです
これはつまり、意識レベルと無意識レベルで矛盾がある状態です
矛盾があると、意識レベルと無意識レベルで相反する行動をして打ち消しあうので、引き寄せは発動しにくくなります
この無意識のすり替わりが起きてしまうのは、やはり自尊感情に欠けているから、どうしても自尊心の傷がうずきやすく、またそれがうずくと、無意識にそちらに意識(ややこしいですが「無意識」という意識)が向き、無意識の中で自己防衛のために目的がすり替わってしまうのだと思います
こういうケースは、本人の自覚できる意識では目的のすり替わりが起きたことを否定しているので、自意識では「幸せになることを目的としている」と思っていますが、実際の行動を見るとそうではないのでわかります

このように自尊感情の欠如は認知を歪ませますので、自愛がよくききます
他にも、イライラするのが日常的になっていて負の感情を持つことに違和感を感じなくなっている場合なども執着しやすくなりますが、これにも自愛がききます
単純に言うと、いい気分でいる状態が自分の標準になっていると、嫌な気持ちになるものに執着することはなくなります
執着する人=依存的な人は自分の感情をコントロールできることを知らず、結果的に自分の感情には責任がないと思っていますが(どうしようもないことと思っている)、自愛をすると、予想以上に自分の感情は自分でコントロールできること、予想以上に自分の感情には責任があることがわかってきます

執着には人に対するもの以外に色々なケースがありますが、今回はこの時期に気づいたことということで、先日このスレで起きたことから想起したことを書いています
違う執着の場合に関しては、いずれ書くことがあるかもしれません